巨星堕つ
鈴木修スズキ相談役が、2024年12月25日15:53分、悪性リンパ腫でご逝去されました。
享年94歳。1930年1月30日のお生まれで私の父と一日違い。私の父が1日お兄さんでしたが、まさにオヤジみたいな存在でした。備忘録として記しておきます。
①労組書記長時代の想い出
1998年頃の春闘交渉(三役折衝)のこと。
書記長として精一杯の思いを込め職場の実態を伝え回答を求めたところ、「お前の言う事くらい分かっとるわ!」と一言。その後「うーん」
経営者としてギリギリの判断をしていたのを思い出します。その後、労組の先輩から富山工場を分社した時の話を教えていただき、従業員の雇用を第一に考えていたことを知りました。交渉は厳しかったですが、雇用は必ず守る…という信念をお持ちでした。
また常に職場の隅々までしっかり目配りし、現場の作業者とも気さくに話をしてくれる方でした。だから当時、私も労組役員として、会長以上に現場のことを知らなくちゃと思い、毎月最低1回は現場を回ったものです。
労使交渉では、組合に対して発言をするというより、役員以下管理職に現場の大切さを言い聞かせるような感じでした。
②初めて選挙に出たときのこと
先輩の県議と市議が2人引退することとなり、当時の労組委員長と「今度の選挙は田口を市議会に出します」と会長にあいさつに行ったところ、「とにかく行革をやれ」と、ただそれだけを言われました。
マスコミからはよく「会長から指示があるのか?」と聞かれましたが、その後も会長から私に対して「あれやれ」「これやれ」とは一切言われませんでした。おそらく労使関係を踏まえていたんだと思います。なんだかんだ言って私は労組が担いだ議員でしたから…
でも浜松行革審の印象が強かったので、私は会長がやろうとしていたことは理解していましたし、市議の時も、また県議になってからも行革を1丁目1番地でやってきました。資金手当債の発行抑制や行政経営研究会の設置など“種まき”はしてきましたが、実際に県債残高を減らすことができなかったことは忸怩たる思いです。
また初挑戦の時、後援会の集会で「田口くんは息子みたいなもんだから、
この時は康友さんが浜松市長に挑戦した時でもあり、会長は“政治生命をかけて”市長選を闘われていました。もう18年も前の話です…
③悩んだ時の相談役
会長からは「あれやれ」「これやれ」と言われたことはありませんでしたが、政策判断に迷った時に私から相談に行くことはありました。
思い出深いのは「中小企業の海外展開支援」です。
県議になった2011年、東南アジア3か国(インドネシア・タイ・ベトナム)を視察し静岡県からの進出企業を訪問しました。進出企業のみなさまからはさまざまな苦労話やご意見をいただきましたが「行くも地獄、残るも地獄」といった厳しさを感じました。
一方で、海外展開を支援することで国内の空洞化を招くのでは…との声も聞かれていました。実際に電機メーカーの海外進出によりサプライチェーンが崩れてしまったケースもありました。
それでも進出企業への支援をやるべきかどうか…悩んだ私は会長に相談に行きました。
「やりなさい」
会長から明確な方向性を示していただきました。
その後、県と浜松市は「海外サポートデスク」を設置し進出企業のサポートを進め、当時はFS(フィージビリティ・スタディ)を中心に、その後は経理や法務、労務ほか間接業務のサポートなど幅広く支援しています。さらに展開先も各国に広がっています。
今回の静岡県とグジャラート州との友好協定締結はその延長線上にあると思います。康友さんが交わした「協定書」を相談役に見ていただきたかったです…
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私はスズキの社員として40年間働いてきました。
修さんと会話ができるようになったのは、書記長になった38歳頃からですが、以来25年にわたり薫陶を受けてきました。私が最も尊敬する人です。思い出は尽きませんが、これまで一生懸命働いてこられた分、安らかにお眠りいただきたいと思います。合掌。